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大阪高等裁判所 昭和33年(ラ)215号 決定

抗告人 斎藤委久子

右法定代理人親権者母 南部昭子

主文

原審判中、本件に関する部分を左のとおり変更する。

相手方は、抗告人に対し金一五三、七〇〇円を直ちに支払い、かつ、昭和三十七年一月一日から抗告人が成年に達する日まで毎月末日限り一ヵ月金三、〇〇〇円の割合による金員を支払え。

理由

本件抗告の趣旨及び理由は、別紙抗告状及び抗告理由補充書記載のとおりであつて、これに対する当裁判所の判断は、次のとおりである。

本件すなわち大阪家庭裁判所昭和三十三年(家)第八六六号扶養審判事件の記録及び原審において右事件と併合審判された同庁同年(家)第八二八号親権者変更審判事件の記録並びに右各記録に添付の同庁昭和三十二年(家イ)第一四六八号協議離婚有効確認調停事件及び同庁同年(家イ)第一七一四号慰藉料等調停事件の各記録によると、控訴人の母南部昭子と相手方とは昭和三十一年五月十三日挙式の上事実上の婚姻をなし、同年六月十九日婚姻届出をなし、昭和三十二年二月十九日抗告人が生れたこと、ところが、同年五月七日大阪市東住吉区長にあて抗告人の親権者を右昭子と定めて協議離婚届がなされ、昭子がこれを無効として争つたため、相手方は、同年八月十九日大阪家庭裁判所にその有効の確認を求める調停を申立て、一方昭子は、同年九月二十四日相手方に対し同裁判所に慰藉料、財産分与金、抗告人の養育費出産費等請求の調停を申立てたが、右各調停は、いずれも成立せず、取下げられ、別に通常訴訟によつて解決すべき問題は、一応留保し、差当り相手方は昭和三十三年二月十三日昭子に対し同裁判所に抗告人の親権者を自己に変更する旨の審判の申立をなし、一方抗告人は同月十四日相手方に対し本件扶養料請求の審判の申立をなし、右親権者変更審判事件は、本件と併合審判の結果、昭和三十三年七月十六日相手方の申立を却下する旨の審判がなされ、該審判は確定したことが認められる。

ところで、右認定の抗告人の親権者を昭子と定めてなされた協議離婚届が有効か否かについては、相手方はこれを有効と主張し、昭子は、これを無効と主張し、双方相争つていることは本件記録に徴し明かであるが、確定判決等により、そのいずれかに確定していない現在においては、一応有効とみるの外はない。そして、当審における抗告人法定代理人南部昭子の審尋の結果によると、昭子は、相手方と事実上の婚姻をした後昭和三十二年一月下旬まで相手方とその実家において同居していたが、その頃自己の実家に帰つて抗告人を分娩し、爾来同家において、抗告人と共に、実父母である南部七松、同つねと同居し、抗告人を養育して現在に至つたことが認められる。

ところで、扶養を要する未成年の子に父母があるときは、特段の事情のない限り、その父母は、その子の他の直系血族に先んじて扶養義務を負担すべく、その扶養義務は、単なる生活扶助義務ではなく、いわゆる生活保持義務であつて、父母が離婚している場合の未成年の子に対する父母の扶養義務の性質もまた右と変ることなく、この場合父母のうち、子に対し親権を有する者、又は生活を共同にする者が、扶養義務につき当然他方より先順位にあるものではなく、両者は、その資力に応じて扶養料を負担すべきものであると解するを相当とする。

そうすると、本件においては、前記のように、昭子と相手方とは、既に協議離婚をなし、昭子が要扶養の未成年者である抗告人の親権者と定められ、同人と生活を共同にしているけれども、右説示により、相手方もまた昭子と共に、その資力に応じ、抗告人の扶養料を負担すべき義務があるというべきである。

そこで、抗告人の扶養料額及びそのうち相手方の負担すべき金額につき考究する。

本件記録中の家庭裁判所調査官田代煌昭和三十三年四月九日作成の調査報告書(但し、添付の「別紙第一ないし第七」と各記載した書類も含む。)、同調査官樫内重之同年六月三日及び同月二十日作成の各調査報告書、当審における抗告人法定代理人南部昭子及び相手方の各審尋の結果(いずれもその一部)を綜合すると、次の事実が認められる。

昭子は、昭和二十四年樟蔭女子専門学校を卒業し、小学校教員をしていたところ、相手方と結婚するにあたり、退職し、前示のように、結婚後一時相手方と同棲していたが、昭和三十二年一月下旬抗告人分娩のため、実家に帰り、分娩後は、同家において、抗告人と共に、実父母と同居しており、資産は有していない。昭子の父南部七松は、抗告人の出生以前から、自宅附近の工場と自宅を使用して、昭子の兄二名(いずれも父母と別居)の手伝のもとに、従業員三名を雇用して裏張加工業を営み、その営業状態は、昭和三十六年十月頃に至り、少しく不振となつたが、従来は順調で相当な収入を得て来ており、木造瓦葺二階建居宅一棟建坪約三〇坪(別に附属として建坪約六坪の離家あり)を所有している。昭子は、父七松方に同居するに至つた昭和三十二年一月下旬以降幼児である抗告人をかかえて約一年間は、同家の家事の手伝をするに過ぎなかつたが、右同居するに至つた時から二年を経た昭和三十四年一月下旬以降は、七松の右営業の手伝をなし、定まつた給料を受けていないが、第三者であれば、住込み食事付で一ヵ月約七、〇〇〇円の給与に相当する仕事に従事して現在に至つた。七松は、抗告人出生後現在に至るまで抗告人の養育費を昭子に対し出捐してやり、なお昭子の生活費も負担出捐した。しかも、同人は、前記のように、自己の営業状態が順調であり、収入も多く、従つて経済的に充分の余裕があつたので、抗告人の養育費については、通常必要な金額以上に余分の費用を支出してくれた。すなわち、抗告人の出生後現在に至るまでの通常必要の養育費は、一ヵ月金四、〇〇〇円ないし五、〇〇〇円であつたが、抗告人が満四才になり幼種園に入るに至つて、更に約三、〇〇〇円余計に入用になつたところ、七松は、これを支出してくれているのみならず、なお、抗告人にピアノ及び日本無踊のけい古をさせ、その費用一ヵ月約金四、〇〇〇円をも支出してくれている。かようにして、抗告人は、七松の理解と同情とにより、比較的恵まれた養育を昭子から受けて今日に至つているものである。一方相手方は、関西大学専門部経済科中途退学の学歴を有し、昭子と結婚する以前から薪炭、氷等の販売を目的とする資本金五〇万円のサイト燃料株式会社(相手方らの同族会社)の代表取締役社長となり、同会社より当初は月給金一二、〇〇〇円を給与されていたが、その後漸次昇給し、昭和三十四年三月頃から月給は金二〇、〇〇〇円となり現在に至つている。抗告人が出生当時、相手方の実家の家族は、父辰三郎、母チヨ、姉サチ子(独身)及び弟の四人であつて、相手方は、これらの者と同居していたが、父は、昭和三十二年一月一日死亡した。当時、右姉及び弟も右会社の従業員として働き月給を会社から給与せられ、爾来相手方、右姉、弟の三名の給料により母子四人が共同生活をなして来たが、相手方は、昭和三十四年妻帯し、昭和三十六年三月十日長男が出生した。右会社は、当初から経営状態は悪く、ほとんど赤字続きで、殊に、昭和三十六年十月以降は倒産寸前の状態である。相手方は、右会社の株式八〇株を有する外は、父の遺産である現在の居宅(約一〇〇年を経過したもの)とその敷地約七〇坪(時価約三五〇万円)につき、相続に因り取得した九分の二の持分権を有するだけで、他に資産はない。

以上の事実が認められ、前顕当審における抗告人法定代理人南部昭子及び相手方の各審尋の結果中、右認定に反する部分は採用できない。

右認定によると、抗告人の出生後現在に至るまでの通常必要の養育費は一ヵ月金四、〇〇〇円ないし五、〇〇〇円であつたが、抗告人が満四才になり幼稚園に入るに至つて、更に約三、〇〇〇円余計に入用になり、なお、ピアノ及び日本舞踊をけい古をさせ、その費用として一ヵ月約四、〇〇〇円を要している。しかし、本件のように、要扶養者である幼児の扶養料算定については、現実の支出額を標準とすべきではなく、子の年齢、父母の職業、社会的地位、資産、収入等客観的事情を考慮し、かかる事情のもとにある普通家庭における通常の生活費を標準とすべきものであると解するから、この説示に従い、上来認定の事実関係に、本件記録中の家庭裁判所調査官樫内重之昭和三十三年六月二十四日作成の調査報告書により認められる児童福祉法に基く施設収容児童の生計費及び大阪市内の世帯人員一人当りの生活費等を彼此参酌して考察すると、相手方及び昭子の負担すべき抗告人出生後の扶養料は一ヵ月金四、〇〇〇円ないし金五、〇〇〇円と算定するを相当とし、前記一ヵ月約三、〇〇〇円の幼稚園の費用、一ヵ月約四、〇〇〇円のピアノ及び日本舞踊のけい古料は、いずれもこれを扶養料として算入することは妥当でない。

ところで、さきに説示したように、抗告人の扶養義務は、まず、その父母である相手方及び昭子においてこれを負担すべきものであるから七松は、未だ直系尊属としての扶養義務を現実に負担していない筋合であるけれども、同人は、前認定のように、抗告人出生後現在に至るまで抗告人の養育費を昭子に対し出捐してやり、昭子は、これによつて抗告人を養育して来た。そして、前認定のように、昭子は、資産はなく、昭和三十二年一月下旬以降約一年間は、抗告人の養育にほとんど手を取られ七松方の家事の手伝をする程度で、他に就職し、又は内職をすることにより、収入を得ることはできなかつた。従つて、この事実だけから考えると、右期間昭子は抗告人の扶養料負担については無資力であつたといえよう。しかし、その間の養育費は、前記のように、七松が昭子に対し出捐してやり、これにより昭子は抗告人を養育して来たところ、その出捐にかかる養育費中、相手方が扶養義務者として負担すべかりし部分はさておき、昭子が扶養義務者として負担すべかりし部分は、七松において、これを昭子に贈与したものであるとみるべきであり、その贈与部分は、結局昭子の収入であると考えられるので、この限りにおいては、前記期間昭子が扶養料負担につき無資力であつたと断定することはできない。また、前認定のように、昭和三十四年一月下旬以降現在に至るまでは、昭子は、七松の前記営業の手伝をなし、一定の給料は受けていないが、第三者であれば住込み食事付で一ヵ月約七、〇〇〇円の給与に相当する仕事に従事して来た。そして、その間の抗告人の養育費は前同様七松が昭子に対し出損してやり、昭子は、これにより抗告人を養育して来たものである。その間の昭子の生活費も七松が負担出損して来た。しかし、右のように、七松が抗告人の養育費及び昭子の生活費を出損しているのは、昭子が七松の営業につき、前記のような給与に相当する仕事に従事しているからであつて、右仕事の代償とみるを相当とするから、右昭和三十四年一月下旬以降においては昭子には抗告人の扶養料負担につき若干の資力があるものというべく、全く無資力であるということはできない。

以上の説明に、上来認定の事実関係における諸般の事情を彼此参酌して考察すると、抗告人出生後における相手方の扶養料負担額は、一ヵ月金三、〇〇〇円をもつて相当と認める。

以上の次第であるから、相手方は抗告人に対し、その出生以降一ヵ月金三、〇〇〇円の割合による扶養料支払義務を負担しているものというべきである。しかし、扶養料の審判において、現実にその請求のあつたとき以降の分を遡つて支払を命ずることはできるが、その以前の分は、これを審判の対象することができないものと解する。本件記録に添付されている大阪家庭裁判所昭和三十二年(家イ)第一、七一四号慰藉料等請求調停事件の記録によると、昭子は、昭和三十二年九月二十四日相手方に対し同裁判所に、抗告人出生後におけるその養育費として金一二〇万円、その他出産費、慰藉料等請求の家事調停の申立をしたことが明かである。そして右養育費は結局抗告人の扶養料であつて、右申立においては右養育費一二〇万円の請求は形式上は昭子から相手方に対する請求になつているが、実質上は抗告人法定代理人としての昭子から相手方に対する請求とみるのが相当であるから、右申立の日に、抗告人から相手方に対し右扶養料の請求がなされたものというべく、従つて、本件においては、相手方は、抗告人に対し右申立の日である前記昭和三十二年九月二十四日から抗告人が成年に達する日まで、毎月末日限り一ヵ月金三、〇〇〇円の割合による扶養料の支払を命ずるを相当と認め(従つて、既に、弁済期の到来した右日から昭和三十六年十二月三十一日までの分合計一五三、七〇〇円は直ちに支払うことを要する。)、将来事情の変更があつた場合は、更に今後の審判に待つのが相当である。

よつて、以上と一部結論を異にする原審はこれを変更することとし、主文のとおり決定する。

(裁判長判事 岩口守夫 判事 安部覚 判事 藤原啓一郎)

(別紙)省略

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